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3月11日という日 ~3~

実家で、87歳になる叔母と涙を流し抱き合い
母の愛に安堵し、最愛の兄ちゃんと再会し
でも、誰と会う事もなく行ったのは妹の家だけでした。

高校からの30年来の友人が私の無事を喜び
「一緒に夕食を」と声をかけてくれましたが
行けなかった・・・

「元気・・・大丈夫・・・頑張る・・・」

心配をかけたくなくて発してしまう言葉
自分の本心ではない言葉が重すぎて、辛かった。

私より辛い人はたくさん居て、そんな事は十分にわかっていて
きっと、今、ソイ君が目の前に居なかったら何も考えず
ただ、ただ、ソイ君を探していたであろう自分。

1週間、ただ、ただ、時間を過ごし、したことはソフィの散歩のみ。

学校の為に戻るソイ君と共に岩手花巻に戻りました。
見送りに来てくれた高校の級友に感謝。

私は実家に戻りたくなかった。
高齢の母を号泣させてしまうほど心配をかけてしまったけど
でも、私はこの被災した地に戻らなければならないと思ったし
その地に戻る事の方がきっと辛いと思ったから・・・

でも、戻りました。
ソイ君の為、そして、又商売の再開を待って下さる方が居るから。

本当に、本当に、たくさんの方の励ましや温かな言葉
そして私などの為に流して下さった涙・・・どれも決して忘れません。

被災したからこそわかること・・・本当に沢山ありました。

「さざんかー、今こそ何かやんなよー」

そんなお叱りの言葉もあるかもしれません。
そんな自分とも向き合っています。


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                   「でも、桜咲いたよ~」


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            「水仙もキレイな春なのだ」






宝くじが当たったら嬉しいし、財産はあるに越したことはないし、世の中お金かぁーと
思ったこともあったけど、でも、
自分は
贅沢でなくてもいい、人様に社会に子供に迷惑を
かけないくらいのお金だけあればいい

そんなふうに想い至って日々を過ごしてきたけれど
それさえも、ままならないのだと今回の震災で知らされました。

それでも、生きているという現実。

津波の中に消えてしまった在庫、わずかに手元に残った在庫は被災後避難所に
寄付させて貰いました。
市民の皆さんのお陰で成り立ってきたことへの出来る少ない恩返し。

そして
「待ってます」「頑張って」と言ってご愛顧下さる皆さま。

まだまだ気持ちは不安定で、時折涙が出てしまいますが

少しでも前に・・・

そして、私の住む市の避難所で犬猫と暮らせるよう署名集めの活動。
そしてブログの更新、やってみたよバイトもっ。

小さい、小さい、私の一歩。


つたない弱小ブログを一か月半も放置し、きっと来て下さる方も
居ないだろう・・・と思っていましたが、変わらずお立ちより下さっていた方

本当にありがとうございます。

今の私がどんな、何の情報を発信出来るのか自問自答ではありますが
一人でも待って下さる方が居るのだとしたら心からうれしく想います。
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by pi-pal-mego | 2011-04-26 22:06 | 震災 | Comments(18)

3月11日という日 ~2~

被災した翌日、スーパーには長蛇の列、そして小学校に水をもらいに行くと
すでに飲料水はなくプールの水をトイレ等の排水用に汲み置きするだけでした。

ソイ君のお友達がおじいちゃんの持ってる山の湧き水が飲めるし、汲んでもいいよと
言ってくれて父さんとソイ君は山に水くみにも行きました。

今までに経験のない現状、何が起こっているのか現実もわからないけど
きっとすごいことが起こっているんだと・・・
父さんが戻った時に高台から見た町を

「地獄絵だった・・・」と例えた

その地獄をまだ知らずにいました。

余震と津波警報が鳴り響く中、過ごした震災2日目


そして3日目、変わり果てた現実を目の当たりにするとともに
自分の生活の不安に突き当たりました。

私が撮影した被災後の町の様子です。
心が沈む方もいらっしゃると思うのでここから先は、見てくださる方の
判断でご覧ください。

今まで、この場で申し上げる事はありませんでしたが
我家は自営業で、店舗(事務所)を兼ねた義母宅
津波の被害を受け無残な姿となっていました。

そう、鍵もシャッターも意味がなく1階は流され2階部分の屋根だけが残っていました。
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介護を必要とした義父の為にリフォームした家も残っていたのは
玄関のた敲きだけ,店舗までの全ての家は跡形もなく消え去り

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父さんの生家であった家、そして私達を快適に東京まで
連れて行ってくれた愛車も見るに堪えない姿に涙した父さん
「一緒に逃げれずごめんね」思わず私の口から出た言葉。
命あるものではないけれど、愛着のある車。
どんな思いで津波の中に居たのだろうか・・・・


街中に大きな漁船があるという、甚だ違和感ある光景
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行く手をふさぐ瓦礫と電柱
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交差点に立ちはだかる漁船を潜り進みました。
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そして突き当たった生活の不安。
我家はそこから一切の収入を失うのだという現実に突き当たりました。


父さんが病気になったら、売り上げが減少したら

そんな事を考える事は多々ありましたが、震災・・・・
それにより全ての収入を失うことは全く考えていなかったのですよ、
考えすぎ、気にしすぎ、気の使い過ぎの私としたことが(笑)

そして、自宅が残ったことの有難さと共に感じた
避難所に居る方への申し訳なさ。

常に圏外である携帯、伝言ダイヤルの無意味。

近所付き合いの大切さ。

人つての情報で、携帯電話がつながる場所へ移動するが
限りあるガソリンへの不安。

携帯が通じても、わずかな電波で通話は出来ずメールで無事を伝えるのみ。
たくさんの人からも安否確認の電話、メールにも答える事が出来ないもどかしさ。

消防署の衛星電話に並ぶ長蛇の列。

私の精神状態は段々と不安に押しつぶされ、弱い自分と向き合う事になりました。

仕事・学校にいくということ
電気、水のある生活、そして、きっと当たり前に居た家族


そんな
普通 だった生活を一瞬にして飲みこんだ津波、そして
翌々日の穏やかな海。

関東大震災をどんなに心配したことか
30年以内に必ず起こると言われた仙台沖地震、
でも、自分が震災に合うこと全く想像していませんでした。

なので、何も備えていない不備。


新聞の記事通り、命が助かったという興奮状態から徐々に
現実を向き合う辛さ。

子供とめごを守っていかなければいけないという自分の役目。
被災から10日目くらいから、疲れが増し

「助からない方がらくだったかも・・・」

あれだけ、命が大切、誰かにとって大切な存在であると
訴えてきた自分がそんなことまでも思うようになり

高齢の母、父さん、そして妹のススメで一度東京に戻ったのは
3月27日の日曜日。前日に帰郷を決め、新幹線不通、バス満席の為
秋田空港から実家に戻り、羽田で妹達が迎えにきてくれていました。
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by pi-pal-mego | 2011-04-26 21:32 | 震災 | Comments(0)

3月11日という日 

さいた さいた さくらが さいた
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確かこのフレーズ去年も使った・・・
桜の花は今年も変わらず花を咲かせてくれたけど

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その後ろに立ち並ぶのは、仮設住宅だったり
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空き地は自衛隊の基地になっていたりする。

そして車で5分も走った場所はもう天国と地獄の違い


ちょうど震災の当日3月11日も、ブログを更新しようと
下書きをしてる最中でした。
2日前の3月9日に東京に帰る兄ちゃんを送りがてら盛岡の病院に行き
膝の手術が決まったこと、そこで震度4の地震にあい津波が20cmだったこと
そして

「なんだか、今年は年明け(大晦日?)から良くないことばかり」と


書いていたその時でした。

そのせいか震災以来、どうしてもパソコンに向かう気になれずにいました。
今も心臓がドキドキしています(汗)


パソコンの横で鳴り響いた携帯の緊急地震速報14:46分。
間もなく大きな長く続く揺れ、一度落ち着くと再び大きな揺れ。
前の家の窓が外れたのを見て、尋常ではないと思いました。
室内に戻るとすでに全ての電源は落ちていましたが、物が倒れたりの
被害は全くなかったです。

その時「津波に注意してください」という市内放送を耳にしましたが
そこから大津波警報を聞いた記憶は全くありません。
ただ、海の上をかもめの集団が鳴きながら円を描いていたのだけが
記憶に残っています。

こんな地震は今までに経験がない。
もしかしたら津波が来るかも・・・

「どうせ、来ないよ(津波が)あなただけ行きなさい」と言う義母を説得し、
車に乗せ、シャッターを下ろし鍵を閉め自宅のある山方向へ向かいました。
この時でも万が一津波が来ても床下浸水くらいだろう・・・と、とにかく室内の物が
流れなければいいや、と私も義母もカバン1つだけ持ちました。
すでに渋滞していた道路、中学校に居ると安心していたソイ君が早い帰りだった事に
気付き「今から帰る」とメールをしたのが3時07分。すでに地震発生から20分が
過ぎようとしていました。


まさか、その10分後にその場所に真っ黒な大津波が押し寄せるとは
全く想像していませんでした。
全ての通信手段を断たれ、電気、水道も止まり私がその大津波の様子を目に
したのは電気が回復した3日後のことでした。


「私も後10分遅ければ、あの黒い津波の中だった・・・」
言いようもない恐怖感に襲われました。

地震発生時、壊滅的被害を受けた地区に行っていた父さんとも
地震のあと「大丈夫」のメールを受けてから音信不通に。
三陸大津波で大きな被害を受けた地区だったので、心配が時間を追うごとに
大きくなっていきましたが、全く連絡がとれず、暗くなってきた家で
探しあてたロウソクに火を灯し、たまたま電池の入っていたラジオを聞き
父さんの帰りを待ちました。「いざとなったら、逃げていて」そう祈りつつ。

普段、わずか10分で戻れる道のりを5時間かけ父さんは夜の8時に
戻って来た時には涙があふれました。無事で良かった・・・。
父さんは後10分遅ければ壊滅的被害を受けた地区で、10分早ければ山を下った地区で
津波にのまれていました。

不気味に揺れ続ける余震、心配してるであろう人達に連絡も取れず
眠れない夜が明け朝を迎えた時

「夢じゃないんだ・・・」

そう思いました。
でもこの時は興奮状態でしたので、
「大丈夫!生きてさえいれば何でも出来る」とかなり前向きで
夜眠れずとも疲れも感じずにいました。
ただ、電気、水道の不通がいつまで続き食料がいつまでもつのか
それだけが大きな不安でした。


長くなりましたので、少し休憩を。。。
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by pi-pal-mego | 2011-04-26 16:39 | 震災 | Comments(2)