3月11日という日 ~2~

被災した翌日、スーパーには長蛇の列、そして小学校に水をもらいに行くと
すでに飲料水はなくプールの水をトイレ等の排水用に汲み置きするだけでした。

ソイ君のお友達がおじいちゃんの持ってる山の湧き水が飲めるし、汲んでもいいよと
言ってくれて父さんとソイ君は山に水くみにも行きました。

今までに経験のない現状、何が起こっているのか現実もわからないけど
きっとすごいことが起こっているんだと・・・
父さんが戻った時に高台から見た町を

「地獄絵だった・・・」と例えた

その地獄をまだ知らずにいました。

余震と津波警報が鳴り響く中、過ごした震災2日目


そして3日目、変わり果てた現実を目の当たりにするとともに
自分の生活の不安に突き当たりました。

私が撮影した被災後の町の様子です。
心が沈む方もいらっしゃると思うのでここから先は、見てくださる方の
判断でご覧ください。

今まで、この場で申し上げる事はありませんでしたが
我家は自営業で、店舗(事務所)を兼ねた義母宅
津波の被害を受け無残な姿となっていました。

そう、鍵もシャッターも意味がなく1階は流され2階部分の屋根だけが残っていました。
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介護を必要とした義父の為にリフォームした家も残っていたのは
玄関のた敲きだけ,店舗までの全ての家は跡形もなく消え去り

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父さんの生家であった家、そして私達を快適に東京まで
連れて行ってくれた愛車も見るに堪えない姿に涙した父さん
「一緒に逃げれずごめんね」思わず私の口から出た言葉。
命あるものではないけれど、愛着のある車。
どんな思いで津波の中に居たのだろうか・・・・


街中に大きな漁船があるという、甚だ違和感ある光景
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行く手をふさぐ瓦礫と電柱
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交差点に立ちはだかる漁船を潜り進みました。
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そして突き当たった生活の不安。
我家はそこから一切の収入を失うのだという現実に突き当たりました。


父さんが病気になったら、売り上げが減少したら

そんな事を考える事は多々ありましたが、震災・・・・
それにより全ての収入を失うことは全く考えていなかったのですよ、
考えすぎ、気にしすぎ、気の使い過ぎの私としたことが(笑)

そして、自宅が残ったことの有難さと共に感じた
避難所に居る方への申し訳なさ。

常に圏外である携帯、伝言ダイヤルの無意味。

近所付き合いの大切さ。

人つての情報で、携帯電話がつながる場所へ移動するが
限りあるガソリンへの不安。

携帯が通じても、わずかな電波で通話は出来ずメールで無事を伝えるのみ。
たくさんの人からも安否確認の電話、メールにも答える事が出来ないもどかしさ。

消防署の衛星電話に並ぶ長蛇の列。

私の精神状態は段々と不安に押しつぶされ、弱い自分と向き合う事になりました。

仕事・学校にいくということ
電気、水のある生活、そして、きっと当たり前に居た家族


そんな
普通 だった生活を一瞬にして飲みこんだ津波、そして
翌々日の穏やかな海。

関東大震災をどんなに心配したことか
30年以内に必ず起こると言われた仙台沖地震、
でも、自分が震災に合うこと全く想像していませんでした。

なので、何も備えていない不備。


新聞の記事通り、命が助かったという興奮状態から徐々に
現実を向き合う辛さ。

子供とめごを守っていかなければいけないという自分の役目。
被災から10日目くらいから、疲れが増し

「助からない方がらくだったかも・・・」

あれだけ、命が大切、誰かにとって大切な存在であると
訴えてきた自分がそんなことまでも思うようになり

高齢の母、父さん、そして妹のススメで一度東京に戻ったのは
3月27日の日曜日。前日に帰郷を決め、新幹線不通、バス満席の為
秋田空港から実家に戻り、羽田で妹達が迎えにきてくれていました。
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by pi-pal-mego | 2011-04-26 21:32 | 震災 | Comments(0)